木曽御嶽山は古来より多くの薬用植物が分布する生薬の宝庫でした。江戸時代は本草学(医薬に用いる生薬の研究)が盛んになり、信州の本草学は木曽から始まったといっても過言ではありません。 当時木曽地方を領有していた尾張藩の取り組みは本格的なもので、研究だけではなく木曽山地での生薬採取を奨励していました。
享保年間(1716-1736)には幕府の採薬師、丹羽正伯らが生薬の採集や調査のために御嶽・駒ヶ岳などを巡っています。
宝暦年間(1750-1764)には木曽代官山村家の医師・三村道益が「木曽薬譜三巻」を著して全国的に木曽薬種の名を高めたほか、生薬の栽培にも取り組んでいたとされています。こうした本草学が最も発展したのは文化年間で、尾張藩士・水谷豊文が御嶽山麓を中心とする 「木曽採薬記」を著しました。
宝暦年間(1750-1764)には木曽代官山村家の医師・三村道益が「木曽薬譜三巻」を著して全国的に木曽薬種の名を高めたほか、生薬の栽培にも取り組んでいたとされています。こうした本草学が最も発展したのは文化年間で、尾張藩士・水谷豊文が御嶽山麓を中心とする 「木曽採薬記」を著しました。
水谷豊文とその弟子たちの研究グループは、中国古代の医薬の帝王・神農氏が「百草(百種類の草)を嘗めてその薬効を試した」という伝説に基づき、「嘗百社」と名付けられました。