二百年伝承され続ける生薬 百草

この記事

今から約200年の昔、木曽御嶽開山の修験者がキハダの内皮を煎じて薬とする事を御嶽山麓の村人に伝えたのが百草(オウバクエキス)のはじまりと言われています。キハダの内皮を水で煮出し、煮詰めて出来たオウバクエキスは胃腸薬としてだけではなく赤痢や疫痢などの感染症や、眼病、皮膚病、口内炎、打撲、捻挫の薬としても用いられ、「万病に効く腹薬」として親しまれた伝承薬です。かつて良質のキハダが採取された木曽地域の家々では家伝薬として百草を作り、日野製薬はこの時代から製造を続けています。

■ 百草のルーツ

長野県と岐阜県との県境にまたがる木曽御嶽は、古くから信仰の山でしたが、「薬草の宝庫」としても知られています。百草のルーツを探るとき、御嶽信仰を抜きに語ることはできません。

御嶽信仰御嶽登拝が広く一般に開放され、講組織が積極的に形成され、広く日本中に御嶽信仰が普及したのは江戸の後期に現れた覚明行者と普寛行者の尽力によるものです。この御嶽信仰の広がりと共に全国に伝承したのが、木曽御嶽の「御神薬」あるいは「万病に効く腹薬」と言われた百草です。
百草は、地元の言い伝えによると、普寛行者が、大峯での修行中に知った陀羅尼助の製法を御嶽山麓の村人に、「お世話になったお礼」と言って伝えたという説、普寛行者の高弟らによって村人に伝授されたという説、あるいは、それより以前に修験者により陀羅尼助が大峯から御嶽に伝わり、地元の人々が困難辛苦して創製したとの説があります。

現在でも地元のお年寄りが、「百草」を「ダラスケ」と言っていることから、百草は陀羅尼助の木曽御嶽版と言ってもよいでしょう。

 
↑写真は合名会社時代の製品です。

御嶽山麓で秘伝の家伝薬として製造された百草は、キハダに数種類の薬草を加えて煎じ詰めたもので、その処方は家ごとに多少の差はありましたが、御嶽山の五夢草と言われるコマクサ、オンタケニンジン、オウレン、トウヤク、テングのヒゲを加え、なお他にもタカトウグサ、ゲンノショウコ、オウゴン、オニクなども利用していたと言われています。これらの薬草を加えた百草は、大正時代にはオウバクエキスのみで製造されるようになりました。黒褐色のオウバクエキスの塊を板状に延ばし、御嶽山麓のくまざさに包み、土産品として販売していましたが、後に、竹の皮に包み販売するようになりました。


御嶽山登拝記録木曽の薮原宿で旅籠を営んでいた日野屋は、代々、普寛行者及びその弟子等を崇敬し、深い親交を結び、百草を販売して来た歴史をもちます。

■ 百草のルーツ

百草の名前の由来は、中国古代の医薬の帝王・神農氏が「百草(百種類の草)を嘗めてその薬効を試した」という故事から引用し、「百の病に効果がある」または「百種類の薬草を合わせた物ほどの効果がある」ことから名付けられたといわれています。

キハダは縄文人の居住跡から樹皮が発見されたことから、考古学上、日本最古の生薬と言われています。文献上では、今から約1300年前の持統天皇の頃、当時疫病が大流行して人々が大変苦しんだときに、役小角(えんのおづぬ、山伏修験道の開祖)が、大和国葛城の吉祥草寺境内に大きな釜を据えて、キハダを煎じ、多くの病人に飲ませて救済したと記されています。

キハダは、健胃整腸薬としてだけではなく、風邪、赤痢、皮膚病、切り傷、貼り薬、目薬などとして幅広く利用されてきました。有効成分のベルベリンには止瀉、苦味健胃、消炎、抗菌作用があります。陀羅尼助(だらにすけ)、百草、練熊などの名称で人々に愛用されてきました。

■ 川柳にみる百草

「だらすけは 腹よりまず 顔にきき」

これは天保時代(1844-1872)の川柳ですが、この句はだらすけが人々の間に広く普及していたことをあらわしています。

■ 島崎藤村にみる百草

木曽路の文豪に島崎藤村が思い浮かびますが、その藤村の童話「ふるさと」には こんな一節があります。

島崎藤村 写真藤村記念館HPより 


-御嶽山の方から帰る人たちは、お百草という薬をよく土産に持ってきしました。 お百草は、あの高い山で取れるいろいろな草の根から製した練薬で、それを竹の皮の上に延べてあるのです。 苦いゝ薬でしたが、おなかの痛いときなどにそれを飲むとすぐなほりました。 お薬はあんな高いやまの中にも蔵ってあるのですね。

Facebookでコメントする

御嶽山の話、生薬の話、信州木曽路の行事、コラム、お寄せいただいたお話など。 今、語り伝えたいことを掲載しています。